修飾語と誤解

(一)「持ち込まれた作業場の床を埋めるマツタケ」

これは、平成十九年十月十八日の中日新聞朝刊の、写真に添えられたコメントの一部である。この表現には文法的な誤りは何もないが、この表現が最良の表現だとは思われない。

(二)「持ち込まれた、作業場の床を埋めるマツタケ」

このように文を切ることが出来るということは、少し考えてみれば明らかであろう。

ところが、(一)の表現は、耳で聞いたとき、またははじめに読んだときには、

(三)「持ち込まれた作業場の床を、埋めるマツタケ」

と捕らえられてしまうことにもなりかねない。

(四)「作業場の床を埋める、持ち込まれたマツタケ」

このように表現すれば、誤解が生じることはまずないであろう。

では、このような現象はどのような場合に起こるのか、またどのようにして防げるかということを一般的に分析してみよう。

結論から述べてしまえば、「被修飾語が、『主語となりうる語を含む修飾語』ともうひとつの修飾語を伴うとき」に生じうる。

 

修飾語…文の成分の一。ある語句の概念を限定したり、意味をくわしくしたりする語。

          (『大辞林』より)

 

(五)「私の持ってきたきれいな花瓶」

(六)「彼女の飼っているかわいい犬」

(七)「友人の五十歳になる母」

(五)(六)(七)の文では、何が「きれいな」か、何が「かわいい」か、また誰が「五十歳である」か、というのははっきりとしている。そう、(五)では花瓶、(六)では犬が、(七)では母が被修飾語となっているということは疑いようがない。

また、このことは「形容詞は原則として、後ろの体言を修飾する」という文法上の規則によるものである。

(八)「きれいな私の持ってきた花瓶」

(九)「かわいい彼女の飼っている犬」

(十)「五十歳になる友人の母」

この三文についてはどうであろうか。

まず、(八)の文。これは、(一)の文にもっとも近い類のものである。

この文では、「きれいな」が「花瓶」にかかるということは、まず間違いないであろう。なぜなら、まず「きれいな」が掛かる語としては「私」と「花瓶」という二つの名詞が考えられるが、「私」に掛かると考えると、「私はきれいだ」という自己讃美になってしまうから、このような意味では捉えにくいからである。

ただし、(八)の表現は、(一)の表現と同じく、分かりにくい表現である。

では、(九)の文について考えてみよう。これは、(八)以上に誤解が生じやすい文である。

(八)とおなじく「かわいい」が掛かる語としては「彼女」と「犬」という二つの名詞が考えられる。さらに、「かわいい彼女」という表現にもなんら問題はないから、「かわいい犬」と解するか、「かわいい彼女」と解するかは非常に難しい。

一般に、この場合の「かわいい」は「犬」を修飾するということが言えるのだが、これは「この文の中心となる体言は『犬』である」という認識によって初めて成り立つことなのだ。

(十)については、多くの場合は(九)と同じように解して構わないと考えられるが、これは(九)以上に文脈によって意味が変化しやすいものである。

「被修飾語が、『主語となりうる語を含む修飾語』ともうひとつの修飾語を伴うとき」には誤解が生じやすいと言う意味がお分かりいただけたであろうか。

日本語の文法として、「形容詞は、少し離れたところにある体言も、その体言が形容詞の後ろにあれば修飾することができる」という特性があることが、誤解を生じる原因となっているのだ。




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